鼻濁音で知るコンプレックス
大学生のとき、鼻濁音という概念を知った。
「私がやりました」
と言うときの「が」は、鼻にかかったような「が」で発音するらしい。
もうちょっと正確に表記すると、「ンが」という感じだろうか。
私の地元には鼻濁音を使う文化はないが、どうやら共通語、つまりアナウンサーがテレビで発音するときには鼻濁音を使うことになっているようだ。
当時の私は感受性豊かだったらしく、関東で使われるからといって、なぜ鼻濁音を使わない発音方法が間違いだというのか!と憤りを覚えていた。いやいやいや、誰も間違いだとは言ってませんやん。
自分がこれまで標準語をしゃべれると思っていたのに、鼻濁音を使えていないどころか存在すら知らなかったことがショックだったのだろう。それと地方民コンプレックスが合わさって、憤りへと変化したのだ。
今の職場の上司は、きれいな鼻濁音を使う。
鼻濁音を使わない土地で育った私にとって、鼻濁音はいまだに違和感が残るが、同時にあこがれも覚えるようになった。
ナチュラルに共通語の発音をできているというのが、都会っぽく見えるのだ。
生まれも育ちも東北の上司に都会っぽいってなんなんだ?と自分でも思うが、どうやらここには私の僻みのクセが出ているらしい。
私は「それに意識的にならずとも、やっていることがそのまんまスタンダードである」というのに反応しがちである。
こっちが努力して獲得しなければならないようなものを、当たり前でしょ?みたいな顔で享受してんじゃねえ、という完全なる言いがかりである。
考えてみれば、これってまさにコンプレックス。私の僻みのほとんどがこれかもしらん。
もうちょっと肩の力抜いて生きようぜ。